いまだ世界は神秘に満ちている

野村喜和夫


いまだ世界は神秘に満ちている。あるいは少なくとも暗合に満ちている。アンドレ・ブルトンのいわゆる客観的偶然にも似て、世界はひとつの大きな無意識であり、あるいは脳であって、われわれの働きかけ次第では、われわれ自身の夢と行動とをつなぐ思いがけないシナプス結合に出くわすことにもなろう。
 とそんなとんでもないことを考えたのは、数年前の夏、ささやかながら不思議な経験をしたからだ。
 私はまず、スイスはローザンヌ近郊の「作家の家」というところに滞在した。もとはドイツのさる出版社主の別荘だったというシャトーに、世界各地からさまざまなジャンルの作家たちを呼んで、数週間滞在しながら存分に創作の時間をつくりだしてもらうという、そういう趣旨のステイだが、私もそこで『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』という長篇詩作品を書き上げた(のちに河出書房新社より刊行)。
 それからパリに寄り、異常熱波の寝苦しい一夜を過ごしたあと(ご存知のようにパリの夏は普段は涼しいので、エアコン設備のないホテルも多い)、さらに暑いであろうスペインはアンダルシア地方の首都セビリアに向かった。フラメンコダンサーをしている妻がそこに滞在していたからである。午後遅く、セビリア空港に降り立ってタクシーに乗ると、街頭の気温表示が48度を示しているところもあり、さながら陽炎地獄のなかに入ってゆくのかと思われた。ひと休みしたあと、まだ暑熱にくらくらしながら、それでもたくさんの店が建ち並び人出も多い中心街を歩き始めたとき、妻が「蛇通りよ」と言って、通り名Calla de sierpesの刻まれたプレートを指さした。妻の説明によれば、メリメの『カルメン』において、ヒロインが衛兵ホセの手を逃れ走り出していったのがこの蛇通りなのだという。そういえば、他の通りに比べ、多少うねうねと伸びてはいる。
 それにしても、なんという偶然だろう。私がスイスで書いていた「蛇」が、こんなところにひそんでいたとは。それだけではない。ふと頭上を仰ぐと、日除けのための布が、通りの両側から隙間だらけのアーケードのように張りめぐらされていて、まさしく「街の衣」ではないか。私はカメラを向け、夢中でシャッターを押しつづけた。写るはずもないのに、「街の衣のいちまい下の」うねうねした小路を、やはりうねうねと蛇のような妖婦カルメンが、ついでホセの情欲が、あるいは情欲のような熱風が、駆け抜けていったようにも思えたからである。