究極の鶏頭

野村喜和夫


無知ほど恐ろしいものはない。私がその当事者だ。以前、あのあまりにも名高い「鶏頭の十四五本もありぬべし」を自作の詩に引喩したことがあった。ところが、注記に作者名を記そうとして、正岡子規の、とすべきところを、うっかり高浜虚子の、としてしまったのだ。いや、うっかりではない。もしそうであれば雑誌初出時や詩集収録時に訂正していたはずである。ところがそうはならなかった。ということは、「鶏頭」の句が虚子作だと思い込んでいたのにちがいない。詩集刊行の直後に、ある人に指摘されてはじめて間違いに気づき、耳まで赤くなった。時すでに遅し。いずれ全詩集でも出る折に直したいが、それまではずっと私の詩集のなかで高浜虚子作のままなのだ。いやはや。
だがそれにしても、子規と虚子の区別もつかなかった俳句無知の私が、そもそもいつどこでこの句に出会い、惹かれていったのだろう。大方は忘れてしまったが、じっと句を眺めているうちに次第に抑えがたく笑いがこみあげてきたことだけはよく憶えている。だってそうだろう。鶏頭が十四五本あるだろうかと、それだけのことしか言っていないのだ。途方もないナンセンスである。これに匹敵するナンセンスといったら、「マルセルは作家になる」というたったそれだけのことを伝えるために、全7巻にも及ぶ膨大な量の言葉を費やしたあの『失われた時を求めて』ぐらいのものではないか。
ナンセンスとは、しかしたんに笑いを誘引するだけのものでない。それは言葉が意味を脱ぐということである。肉を剥いて骨が顔を出すように、いや、その骨を脱いでさらに別の肉が剥きあらわれてくるように、それは恐ろしいことなのだ。そう、無知と同じくらいに恐ろしいことなのだ。たぶんそのあたりの機微に惹かれたのだろう。私はつぎのように引喩している。「うたが終わる----猶予がうなぎのようにのたくり、猶予のようにその影がこときれて。不意に襲う風景には深さが欠けているが、それでも鶏頭の十四五本はあるだろうか。むなしくもまた美しいあの肉体この肉体の究極のそよぎそのもののように。あるいは文字だ、糸のような人だ。」
「鶏頭」の句の背景を、その後知ることになった。死を2年さきに控えた子規が、その病床から庭を眺めて読んだ句だという。そして私の想像力の庭の奥処にも、存在の意味を脱いだ究極の鶏頭が十四五本、よじれたヒトの染色体のように群がっている。