私の作詩法

野村喜和夫


 もう長いこと詩を書いてきて、またそれに付随して詩論・エッセイのたぐいもずいぶん書いてきたが、たとえば「私の作詩法」というようなテーマで文章をしたためたことは、まだないように記憶している。そこで、この機会を利用して、ふだん私が、いつどこでどのように詩を書いているか、それを開陳してみようと思う。これから作詩にいそしもうというみなさんに、多少とも資するところがあれば幸いである。
 私の場合まず、詩を書きたいという欲望、それは女をもとめてゆくのとほとんど変わらない欲望だ。脳髄そのものが勃起したような状態になって、私はいたたまれなくなり、たとえば思わず外に出る。昔、寺山修司の煽動的な本のタイトルに「書を捨てて街に出よう」というのがあったが、私の場合、究極的にはその捨てられるべき書をさらに増やすような行為をしているというのに、ひとまずなすべきは、家出や反抗を志す少年少女と変わらず、書を捨てて街に出ることなのである。
 いや、内奥にこもるという場合もありうる。というか、外に出るのも内奥にこもるのも、方向がちがうだけでその意味するところは等価なのである。ふつうに家にいたら何もはじまらないのは詩にかぎったことではないが(たとえば不倫)、とにかく外に出て、あるいは内奥にこもって、文字通り外や内奥をひとつのリアルとして生きることが、私の詩作の第一歩なのだ。跳んだり跳ねたり、めまいしたり、寝そべったり、そのまま入眠してしまったり。繰り返すが、一応書は捨てて出てきているので、他人の書物のたぐいはいっさい参照しない。引用もへったくれもない。もちろん、日常かなりの量の本を読んでおり、その記憶つまりレミニセンスはひんぱんに起こるから、それを無視して詩作するいわれはないであろうとは思うけれど。
 一時間もぶらぶらすれば、あるいは横たわれば、詩句のひとつやふたつは浮かんでくる。だがまだ本格的なエクリチュールには移らない。浮かんで、そのあともし消えるのならば、それをあえて追い求めたりはしない。消えたには消えたなりの必然があったのだろうと考えるのだ。
 浮かんで、そのままであるならば、はじめてそれを、その詩の芽のようなものを、手帖に書き留める。路上で、カフェやレストランで、あるいは帰宅して、あるいは夢から覚めて。そのようにして、たとえば「柔らかな柔らかな戦争がしてみたい」とか、「街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ」とか、「ギヨ/巌/ギヨ/伏流の肌が寄り添ってきて/わめく光となって散る」とかの詩句は生まれた。それは地から湧いてきたような呪文、あるいは風が運んできたような誰のものともしれぬたわごとである。だが、そこから出発するしかない。誰のものともしれぬがゆえに、かえって、私一個ではといてい到達できないような、語り得ぬものの核心に触れていないともかぎらないではないか。それに、さいわいなことに、そういう呪文あるいはたわごとは、すでにしてその周囲に、もやもやっと、なんとなく別の言葉が寄り集まってきそうな、つまり詩のテクストになりそうな雰囲気をもっている。もう少しまともに言えば、そういう呪文あるいはたわごとにおいては、言葉の詩的機能(詩そのものではない、念のため)がいつもよりむきだしになって、音とイメージとの自在な網状組織が生まれやすいのだ。
 かくして、エクリチュールが始まる。時間にして20分、あるいは2時間、あるいは2日、あるいは2年。性急に、しかしまた忍耐強く。ただ、かくも時間の幅があるから、締め切りから逆算して書き始めるというような職業物書き的離れ業は、どうあってもできないということになる。欲望は、その対象が女であれ詩であれ、時と場所をえらばずに、藁のように燃え上がるのだ。締め切りがあろうとなかろうと、私はだから、いつでも臨戦態勢をとっていなければならず、いやはやそれは疲れることだが、詩を愛してしまった以上は仕方ない。
 最後に、筆記用具についても触れておこうか。最近はまた手書きを試みたりしているが、おおむねノートパソコン(移動が詩作の生命線なので)が手放せない。手書きの場合は、右手を通してまさに自分の身体からゆるやかに文字が繰り出されてゆくような感じだが、パソコンの場合は、画面から文字がこちらへ湧いてくるような感じ、そして自在に組み替えられ、無限の面的ひろがりとしてレイアウトされてゆくような感じがあって、それはそれで冒険的な書き方だと思うのである。ただ、年のせいか、自筆原稿が残らないというのもさみしい。手書きを復活させたゆえんである。