夢でもよく私は街をさまよう

野村喜和夫


 自己宣伝になるが、私の長篇詩作品『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社、2005)は、ほぼ12年前に思潮社から出した詩集『反復彷徨』以来の大がかりな都市詩篇である。『反復彷徨』は渋谷の谷から丘へ、丘から谷へ、いくつかの未知の痕跡を辿る詩のクエストだっだけれど、『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』のほうは、行分け小説つまり叙事詩みたいに流れる部分もあって、そこでは、ひき逃げをしたか、あるいはしたと思い込んで車で街なかを逃亡し始める男の前に、空間的にも時間的にも、街が次第に深まっていって迷宮さながらとなり、巨大な蛇や女や江戸が幻視されるまでになる。
 それはともかく、街をさまよって詩のテーマや書き方を見出してゆくのは、詩作にさいしての私の主要な方法のひとつである。街なかをさまよい、探訪するというのは、女の熱い襞をまさぐるのにも似て、あるいはインターネットのサイトをつぎつぎにクリックしつつ奥へ奥へと入り込んでいくのにも似て、いやその何倍も何十倍もめくるめくような体験なのだ。そればかりではない。夢でもよく私は街をさまよい、探訪する。いうまでもなく夢のなかでの街は現実の街よりもいっそう迷宮的であり、その探訪には終わりがない。いくつか紹介しよう。
 たとえば新宿駅の地下街の奥の奥あたりだろうか、びっしりとほとんど境目もなく連なった居酒屋のどれかで、あるいは無数の座敷をもつ巨大なひとつの居酒屋のどこかで、何かのパーティーの二次会を私の仲間たちがやっているはずだが、いくらさがしてもみつからない。別の居酒屋に寄り道して油を売っているうちに、私だけはぐれてしまったのだ。廊下を右に折れたり左に折れたり、やがて襖につきあたり、その向こうがにぎやかなので、ここだなと襖を開けると、見知らぬ人たちの宴会だ。しかし奥にさらに襖があるので、まっすぐにすすんでそれも開けると、また見知らぬ人たちの宴会だ。そんなことを繰り返しているうちに、時間だけが経ってゆく。襖から襖へ、廊下から廊下へと、なおも私はさがしてみるが、いまやどの座敷にもひとりふたり酔客が残って相手にからんでいたり、吐きそうになっていたりするだけで、調理場をのぞくと板前さんたちはもうそれぞれの持ち場を片づけ始めている。それにしてもなんという広さだ。歩き回るうちにうんざりしてきて、とある出口から地上に出てみると、おいおい、もう夜が明けているではないか。
 またたとえば、渋谷のホテル街を抜けてなおもずんずん歩いてゆくと、古い石の建物がつづくようになる。変だな、まるでヨーロッパだ。しかし欲望の解消の方が先決なので、そのあたりのことは深くは考えない。つまり私はM子とどこか空き部屋を、どこかとりあえず睦みあえるような場所をさがしているのだが、建物はどれも無人で、窓には窓ガラスがない。そのため窓がなんとなくしゃれこうべの眼窩のようにみえて、私たちはかえって空き部屋をさがす気力をなくしてしまう。界隈一帯が再開発地区らしく、まるでビルの墓場を行くようだ。あるいはひょっとして、ビルほどにも大きい本物の墓石のあいだを歩いているのだろうか私たち--と思われたその瞬間、ぼろぼろとビルあるいは墓の壁がくずれ、そこから野蛮な蔓性の音楽が立ちのぼる。
 とまあこんな具合だ。ところでこの蔓性の音楽、それを仰ぎながら、私は一枚の紙を差し出す。そこに不思議な記譜のようなものが映し出されて、さらにそのいくつかの部分がどうあっても言葉でしかないような形姿をみせるならば、それが詩である。ただ、揮発性のそれをそっくり夢の外まで運び出すのは、もちろんきわめてむずかしい。