ボジョレー・ヌーボーと詩と私と

 

 

 11月20日はボジョレー・ヌーボーの解禁日だった。我が家ではもう20年来、その日にこのワインを飲むという儀式めいた習慣をつづけている。今年の欧州の夏は記録的な猛暑だったため、ぶどうの糖度が高まり、百年に一度の出来になったともっぱらだが、同時に、一年に一度しか口にしない液体でもあるので、私の舌ではなんとも判断しがたい。

 で、そのつど、「お、フルーティー」などと繰り返すくらいで、しかしそれでいいのだと思う。じっさいこの解禁日、本場フランスでは、収穫を感謝しその年のワインの出来を占うということのほかに、若々しくフルーティーな液体を摂取することによって、自分自身の若返りを図るという意味もあるようだ。私自身、年齢を重ねるにつれて、だんだんそのほうの意味が切実さを帯びてきているというわけだ。

 しかし考えてみると、私のかかわる詩というジャンルも、谷川俊太郎に言わせれば「歴史よりも古い」らしいから、もうすでに十分に老いているというか、時を刻んできているわけで、それだけに、若返りあるいは更新の必要というものにも、たえず晒されているような気がする。私が今年出した『ニューインスピレーション』という詩集のタイトルにしても、アナクロ的な「インスピレーション」という言葉に「ニュー」という形容をつけて、多少ともそういうジャンルの事情を反映したところがあるのかもしれない。

 詩の更新儀礼において、ボジョレー・ヌーボーのような若々しい液体の役割を果たすのは、私見によれば自在ないしは自由という概念だ。それは詩そのものを特徴づけるような、あるいは定義づけるようなところがある。なにしろ、口語自由詩、というくらいだから。これからさきは若返りというより、原点に立ち戻るような話になるが、あるとき、『定義集』という古今東西の名言を集めた本をめくっていたら、詩の項目もあって、「本の中で行の終わりが余白にとどかないところ——そんなのが詩ね」(一小学生)とあった。詩というジャンルのあやうさを半ばからかっているような定義だけれど、たしかに、行分けされていればそれで詩だというルーティンワークの存在は、否定のしようもない。思うに自由とは、それを獲得することよりも行使することの方がはるかに難しいのであろう。

 詩の自由——それはつまり、第一行が書かれるそのつど(ボジョレー・ヌーボー同様、この「そのつど」というのがポイントだ)、内容と形式、あるいは内容と表現とが、一つになることを夢見てともにはたらきはじめるその瞬間を指していうのであって、さきほどの一小学生につづいて詩をまじめに定義するとすれば、内容がそのまま形式であり、形式がそのまま内容であるような言語表現、そんなのが詩ね、ということになる。

 言うはやすし、行うはかたし。しかしそれだけに、「そのつど」に向き合うふるえるような緊張感といおうか冒険心といおうか、それから、内容と形式とがまがりなりにも合致をみたように思われる瞬間の悦びといおうか達成感といおうか、その二つの経験はちょっと捨てがたいというか、なにものにも代えがたいところがあるのだ。

 たとえば昨今、俳句をやったり、小説を書いたりする詩人が多く見受けられる。もちろん越境それ自体はすばらしいことだし、多芸多才は私も大いにあやかりたいところだが、その越境が詩というジャンルの自信喪失ないしは空洞化を背景にしているのだとしたら、大いに問題だと言わざるをえない。詩集『ニューインスピレーション』において私は、形式的には14行詩ソネットから哲学的断章風にいたるまで、主題的には競馬に取材したルポルタージュ風から季語を核に据えた連作にいたるまで、さまざまなことを試みた。その成果がどれほどのものかは読者の判断に委ねるとして、これからも「そのつど」の冒険と悦びとを糧に、それが尽きない限りどこまでも詩を書いてゆくつもりである。

(初出/東京新聞2003年12月)