詩の朗読をめぐって
野村喜和夫
自作詩朗読をするようになって久しい。その打ち上げの席などで、なぜ朗読するのか、とやや詰問のように訊かれることがある。いまはそれほどでもないが、以前はそれこそ朗読をするたびに訊かれたような記憶がある。これがたとえばヨーロッパ語圏の地域なら、そういう質問自体が発せられないだろう。朗読はごくあたりまえのこととして行われてきたからである。日本では考えられないことだが、あのパウル・ツエランの名を一躍高らしめるきっかけになったのは、グルッペ四七という集まりにおける彼の自作詩朗読であった。そこで初期の代表作「死のフーガ」が朗読され、それを聴いて心を動かされた某出版人が、ほとんど世に出なかったツェランの処女詩集の再出版を買って出たのである。またアメリカでは、いわゆるポエトリー・リーディングが雑誌並みの機能を果たしている。あのアレン・ギンズバーグが長詩「吠える」を発表してビート詩を切りひらいたのも、サンフランシスコは「シックス・ギャラリー」という場所で行われた伝説的なポエトリー・リーディングの夕べにおいてであった。
一般にヨーロッパ語では音声言語が重視される。言葉はなによりも口から発せられるものであり、文字言語は基本的にその書き取りにすぎない。それだけに、かえってデリダのような音声言語批判、エクリチュール礼讃が、西洋形而上学全体への異議申し立てというような過激な意義をもったりするわけだが、日本ではむしろ逆であろう。漢字の力が大きいこともあって、はじめに文字ありきのようなところがあり、とりわけ先鋭的な現代詩のような場合は、声はいわば当然のこととして抑圧されている。下手に声に出して読んだりしたら、それこそたちまち白けた雰囲気があたりに漂いかねない。であるからして、あるいは声こそが、私たちの日本語の複雑でゆたかなエクリチュールの可能性を抑圧しているのかもしれない。じっさい、技術的な面にかぎっても、同音異義語の多さは聞く耳にははなはだ不都合なものであり、それが漢字熟語の場合は、私は朗読のさいとっさに大和言葉に置き換えてしまうこともある。冒頭の質問も、せんじつめればそうした言語文化を背景になされたものであろう。
さて、なぜ朗読するのか。同じ言語文化を背景とする者として、私はすこしひねった回答を用意しよう。すなわち、もちろん作品が朗読を要求するからである。私は一介の詩人であり、格別声がいいわけでもなければ、読み方がうまいわけでもない。自分の声は恥ずかしいと思っているし、それ以上に、人前に身体をさらすのはほとんど耐えられない苦痛だと思っている。にもかかわらず、すでに数え切れないほどの自作詩朗読を行なってきた。それはつまり、詩においては、すくなくとも私の詩においては、作品が朗読を要求するからである。
なるほど、すべての詩人のすべての詩が朗読されたがっているわけではあるまい。なかには、かたくななまでに黙読されることを、すなわちひたすら文字言語として眼で追われることを願っている詩もあるだろう。ヨーロッパ語圏においてでさえ、たとえばマラルメの系にあるような詩は、幾分かそうであろう。しかしすくなくとも私には、そういう詩は書けない。書かないのではなく、書けないのである。いわば本能的に、朗読されたがっている詩しか私には書けないのである。逆にいうと、とくに朗読用と定めて詩をつくるようなことはしない。どころか、一見したところ朗読不能のような、実験的な詩を書くことさえある。それでも私はその詩を朗読してしまう。雑食性の動物か何かのように。いや、何度でも言うように、それは作品が朗読を、たとえおのれの姿がそれに適さなくても、ひとまずは要求しているからである。どうしてそんなことになるのか。
ここですこし個人的な経験を語ってみよう。私が最初に自作詩朗読を行なったのは、いまから十数年まえ、一九九四年のことである。実はそれまで、まさか自分が朗読をすることになるとは夢にも思っていなかった。べつだん朗読を否定していたわけではない。そもそも私が詩を書き始めたのは、吉増剛造の詩を読んで影響を受けたからであり、吉増氏といえば、日本における朗読パフォーマンスのパイオニアのひとりでもある。氏の朗読も何度か聴いたことがあり、フリージャズのような即興的な音楽との渡り合いは、充分にスリリングなものであった。だから私のなかでは、さきほどの言語文化云々にもかかわらず、自作詩朗読は忌避すべきものと考えられてはいなくて、ただ諸々の理由から自分には似つかわしくないであろうと勝手に決め込んでいたにすぎない。言葉をかえていえば、そのころはまだ、作品が朗読を要求しているということに気づいていなかったのかもしれない。
それが、詩壇のある賞を受賞した記念に、一度朗読会を開いてみてはどうかと妻に促され、彼女のプロデュースで、半ばしぶしぶ誘いに乗ることにしたのである。そのさい、たんなる自作詩朗読では芸がないので、ジャズ・チェロの第一人者翠川敬基ほかのミュージシャンに声を掛け(翠川氏は吉増氏の朗読パフォーマンスの長年の共演者でもある)、詩と音楽とのコラボレーションというかたちで会は実現した。「管・絃・絃・詩」と会のタイトルが銘打たれたゆえんである。場所は新宿文化センターの小ホールで、およそ四、五十人ほどの聴衆が駆けつけてくれただろうか。私は既刊四冊の詩集のなかからそれぞれ一篇ずつを朗読した。そのうちのひとつ、「デジャヴュ街道」は、つぎのように書き出されるやや長めの詩篇である。
デジャヴュ、
さながらてのひらのうえを走るように、
紙葉一枚ほどのくすんだ空の奥の、その右上あたりから、
道がひとすじ、濃くうすくあらわれ、
ちらめく蛇体のようにうねりながら、
私たちの眼のはるか下へ、たとえば立ったまま眠る
祖の腰のあたりへと伸びて──
こうした詩行を、私はたぶん淡々と朗読したと思う。ウードという琵琶に似たアラブの民族楽器から繰り出されるエキゾチックなリズムとメロディが、私の詩の内容とかえって不思議な共鳴を起こしていた。私は次第に高潮し、つぎに引くコーダ部分では思わずうわずったような声を出して、DJがやるループさながら、さわりの詩句を何度も繰り返したりした。
おお、いったい何のための、
誰のための、これは通い路、
と問いかけたそのときだった、まさにそのとき、
空の奥のその街道のうえを、
ひとの痕跡を運び、
また喰らう微細な生き物の列らしき影が、
さながらひとの染色体のように
ひとしきり激しく昇り降りするのを、
なすすべもなく、私たちは眼に、
デジャヴュ、
したのだった──
こうして最初の朗読パフォーマンスは終了したが、思いのほか好評だったようで、しかし実をいえば、それには私なりの予感があったのである。私の詩はしばしば音楽的であると評される。じっさい、詩作するとき私は、かならず声を響かせている。それは音声というより、もうすこし言葉そのものに内在的な声であるが、詩は、そういう声──あるいは身体といってもいいかもしれない、声は身体から出るものであるから──という変換装置を経てはじめて文字として定着される。私の場合どうもそんなプロセスになっているので、はじめての自作詩朗読といっても、そのひそかなリハーサルはずっと以前から行っていたということになる。
ともあれ、この声=身体が、作品において朗読を要請する当のものであるように思われる。いま声は内在的だといったが、潜在しているといってもよいだろう。詩作のさい、ポエジーはひとまず文字として定着され、変換装置としてはたらいた声=身体は抑圧される。したがってつぎにはそれを現勢化し、外に解き放ってやらなければならない。それが朗読であって、そうしないと作品はいつまでも完成しないような気がするのである。いや、そのときまた声=身体があらたな文字を促して、作品はつぎなる途につくのかもしれない。
そもそも詩の朗読は、たとえば物語の朗読とはちがう。物語の朗読の要諦は、すでに十全なものとしてある物語=意味を、いかに効果的に語り伝えるかというその技術にあり、たとえテクストは不在であっても、つまり文字通りの語り聞かせであっても、その前後に意味は充溢し完結している。詩はそうではない。詩はつねに途上である。プロセスである。文字と声との競合には、原理的にいえば、どちらが先かという起源もなければ、どちらに落ち着くかというテロスもない。そのつどの相互作用的な生成があるばかりなのだ。いうなれば私は、テクストを楽譜のように扱い、朗読という名の演奏によって、そのつど、ポエジーのあらわれにみずから耳を傾けているのであろうか。詩の朗読をめぐって、これが現時点での私の結論である。
付言したいことがひとつある。それは作品の要請につぐ時代の要請であって、作品の要請は、縷々述べてきたように、私個人の愉快なたわごとにすぎないのかもしれず、しかし時代の要請はそういうわけにもいかない。私たち詩人にとっておそろしいことに、詩が書店から消えつつあるのだ。それにはさまざまな要因が考えられるが、根本的には、いわゆる「グーテンベルクの銀河系」が終焉を迎えて、言語芸術の精華であった詩も後退を余儀なくされたということであろう。やむにやまれぬ時代の要請に突き動かされて、詩はいま書物空間の外にも出ようとしている。あるいは出ざるを得ない。世界各地で開かれるようになった詩のフェスティバルも、そのことと無関係ではあるまい。書店から消えた詩は、生き延びの場をもとめて朗読というスタイルに走るのだ。言語文化の背景もくそもない。もともと朗読の伝統があったところでは、その見直しがはかられ、黙読の国の詩人たちは、恥ずかしい自分の声を、カフェやギャラリーや劇場の空間におずおずとひろげはじめる。そこであらたな「銀河系」の夢を見ることはできるか。私としてはむしろ詩が書店に戻される日、そのありえない日を夢見つつ、作品の要請などという文学の香気を気楽にばらまいていたいのだが──
(初出:「彷書月刊」2007年12月号)